FS唱歌集制作の思い

s41年卒業生制作 卒業40周年記念誌「我ら団塊一年生」 から 抜粋させていただきました。

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◆メイキング・オブ・CD                         川竹道夫
事の発端はこうだった。いつもの夕食のとき同窓会記念誌の編集をおおせつかっている私は、カミさんと二人の食卓で、「学生時代のファイアーストームのときに歌った寮歌の歌集なんかもつけたいね・・・」などと話していたら、カミさんは「自分たちで歌って録音したらいいんじゃないの」まさに天の声だった。今までに自分のCDをはじめ、人のCDもずいぶんプロデュースしてきた。今の時代CDを作るなんて、録音は別としても、パソコンが一台あれば簡単に出来てしまう。
翌日、都合のいいことに、原田君が遊びに来た。彼は知る人ぞ知る「岡晴夫を偲ぶ会」の会長として懐メロ世界では全国的に名を知られている人物なのである。SPレコードのコレクションもさることながら、どんな歌のカラオケでも自分でつくってしまうという技術を併せ持った希有な人材である。昨夜聞いた天の声を早速彼に告げ、「寮歌のCDを作りたいんだけど、カラオケ作ってくれない?」答えは簡単だった。「カラオケやいらん。太鼓が一つあったらいける」この一言で私の心は決まった。記念誌に花を添えるのは寮歌のCDだ!あとは歌を歌うスタッフの調達だ。
ことが成功するときはトントン拍子に行くものである。数日後が、同窓会実行委員会の打ち合わせの日だった。ポケットに集まった仲間たちに、CD制作の話を持ちかけた。案ずるより生むがやすし。誰も反対しないどころか、歌ってくれるかと尋ねると、即座に賛同の手がたくさん上がったのである。これほど力強い答えがあるだろうか。この時点でCD製作の成功は約束されたようなものだった。合唱団員(?)となるはずの人たちとは巷のスナックで何度かお付き合いをいただき、歌のうまさは十分に知っていたので、素晴らしいものが出来ることを直感したのである。物事の成功は参加する人たちのヤル気でほぼ決まる、結果は後からついてくる…。こんな甘い考えも私の心をとらえた。
ともかくCD製作は現実のものとなった。選曲に時間はかからなかった。有名な寮歌と城南男前節、校歌などを入れればよろしい。後に同窓会の事務局に問い合わせたところ、1985年から学校で発行している「徳中・域南歌集」の第3版を送ってくださった。歌集は校歌をはじめ、110年祭の記念歌など、後輩たちが作った歌や、旧徳中時代の先輩たちの歌も入っていた。中に城南健児の雄叫び、学生愛歌、それに「流星落ちて…」、などなど、なつかしい歌を発見してうれしかった。一方、有名な「鳴呼玉杯に花受けて」などは掲載されていなかった。察するに、著作権などの問題もあり、城南独自の歌詞を持たないものは掲載されなかったのだろう。
この歌集と手持ちの寮歌集から10曲を選んだ。だが、歌いたかった「同期の桜」は、未だ著作権が消滅しておらず、録音するには若干の出費と、著作権使用願いなど面倒な手続きが必要となるので、今回は見送ることとし、残る9曲が録音の対象となった。
さて、寮歌というものはもっぱら口伝えにより、歌詞や旋律が受け継かれてぎた。決まった楽譜が存在する曲は極めて珍しい。今回参加した人の中にも、昔の城南生時代に歌ったとおりに歌いたい、という考えを持つ輩も少なからずいた。だが、当時教えられた旋律を正確に覚こているものもなければ、それを正確に伝える術を知っている人もいない。
そんなとき寮歌集(国書刊行会)尾崎良江著、「平成愛唱寮歌八十曲選」に出会った。15年にわたって寮歌を研究し忠実な楽譜を作成している人がいた。感謝である。
ここに収録された楽譜および歌詞と、手持ちのLPレコート「明治、大正、昭和三代の青春、日本寮歌全集」(クラウンレコード)からの音源をCDにまとめ、教材セットとして、参加予定者に配布した。くれぐれも繰り返しCDを聴いて、練習しておくように念を押しておいたが、あまり期待は出来なかった。録音のための練習に一日、録音に一日かけることとした。練習、録音のスタジオを提供してくれたのは、原田君。「.歌の国」の看板が立つ原田邸の門をくぐると、一見平屋風の小屋のようなものが見える。元はプールであったのを自分で改築して、地下の立派なスタジオにしているのだ。中にはマイクやDVD、カラオケ設備などが装備されていて、壁には岡晴夫のポスターが貼られている。そういえば原田君は建築士の資格も持ち、DIYYショップを経営したり、井戸掘り職人も出来るマルチ人間だ。つい昨年までは栄町で「歌の国みるくらんど」を経営していて、城南生仲間も集まっていたのだ。が、今は自宅が「歌の国」になってしまっていたのだ。
第一回の練習日、午前中は同窓会の案内発送準備に追われ、20分ほど遅刻して現地に到着したところ、既に生田君が真っ赤な顔をして出来上がっていた。どうやら一時間前に到着し、原田ご夫妻の歓待を受け、さらに吉本醸造のおいしいお酒を頂戴して、すでに飲めや歌えのカラオケ三昧。シラフでも大きな声は、いっそう迫力を加え最早絶好調、出遅れた我々も、景気づけにお酒を頂戴して、ざあ練習。何人かは教材を参考にちゃんと練習をしてくれていたので、やる気が出てぎた。日ごろから楽譜を見ないで歌う人たちに疑問を持っていたのだが、この日集まった人たちは、素直に楽譜を目で追いながらちゃんと歌ってくれたのだ。そこで私は全員に歌詞だけでなく楽譜を見ながら歌ってもらうことを決意。阿州の英才たる城南生ともあろうものが、文字よりもはるかに易しい音符を理解出来ないはずがない。理解できないまでも、その必要性は理解してもらえるたろうと期待した。とにかくこの日の練習で手ごたえは感じたのである。
さて、吉本醸造のおかみさんは、我らが同窓生の杉山さんである。この日も「晩茶酎」を差し入れてしてくれた。おかげで楽しみながら練練習が出来た。余談になるが、練習を終えても飲み足りない生田、村田、川竹の3名はそのまま原田邸にとどまり、飲めや歌えの宴となった。思い出話に興ずるうちに、いつしか我々の世代は、戦後の中でも、真の自由を理解しうる最後世代ではないか、という安直な合意に達し、いきなり軍歌を歌おうということになった、軍歌には素晴らしい歌もたくさんある。走と兵隊、敵は幾万、空の神兵、ここはお国を、ラバウル小貝、などなど。とにかくその日は軍歌をさんざん歌ってお開きとなった。
後日、古い写真を探していたところ加茂名幼稚園時代の写真が出てきた。なんとこの日の生田、村田、川竹の3名が前列に並んで写っているではないか。それぞれ小学校、中学校は違っても城南高校を卒業し、同窓会で再開し一緒緒に歌を歌うことになろうとは…。運命のいたずらというのだろうか、こんな時からこの日の宴会は約束されていたのかもしれない、と不思議な気持ちになった、ちなみに写真の後列右端の聡明な顔をした幼児は、やはり城南同窓生の小川悟君ではないだろうか。
ここで、やや専門的な話を・・・。軍歌も寮歌も明治以降の西洋音楽奨励政策によって、西洋音楽の影響を強く受けた日本の音階によって出来ている。ところが今回録音する曲の中に一曲だけ趣を異に曲がある。オリジナル曲として現存する「城南男前節」だ。多分メロディは何処からか拝借したものだと思われるが・・・。
学生当時「流星落ちて・・・いざや歌わんかな、城南男前節、アイン、ツバィ、ドライ、城南富士から見下ろせば・・・」こう続くのだが、なんというか巻頭言と歌との落差が激しくどうも違和感があったものだ。
ながらく歌っていなかった城南男前節を調べたところ、日本古来の律旋法陰音階で出来ていた。一方、寮歌や軍歌の世界では、ラシドミファの、西洋ヨナ抜き音階が席巻している。「嗚呼玉杯に」などの寮歌の勇ましく、バンカラ気風の堂々とした歌に比べ、男前節は遊びすきそうな軟弱なイメージがあった。「流星おちて・・・」は元々第七高等学校造士館の寮歌「北辰斜め」の巻頭言として作られたものだ。最後は「いざや歌わんかな、北辰斜め・・・」で歌につなげる、若者のたぎる「情熱を一夜の宴に発発散しようとするエネルギーに満ち溢れている。一方城南男前節は、タイトル通り、やさ男がナンパしようとするが如き軟弱な歌詞と日本古来の律旋陰音階の旋律で成り立っている。三味線片手に歌ったら、吉原あたりのオイラン衆にはさぞかしもてたことだろう。そんな感じの曲調なのだ。バンカラ調の巻頭言に続いて、オイラン調の男前節に違和感を覚えたのはこう言った事情があったのだ。維新の昔、お江戸の流れを感じさせる城南男前節よ、お前はどこからきたのだ?
ともあれ、今回のCDでもこの違和感をそのまま再現することにした。これは小柴君の強い要求によるものであることを付け加えておこう。
話を元に戻そう、練習の次はもう録音である。過去にCDを何度か録音したり、プロデュースしたことはあるが、今回のように、アーティストがのんびりしているのははじめてである。これから一日かけて9曲を録音しようというのに、全く緊張感がない。
練習をして万全の体制で来ているのは私見る限りでは5名ほどである。では、残りの人は烏合の衆かというとそうでもなさそうである。それなりに心の準備は出来ているようである。うれしかったのは女性2名が参加てくれたことである。バンカラが売り物と云えどもと男女共学の城南高校、校歌には絶対にに女性が必要という私の願いが通じたのか、渡辺(中尾)、吉本(杉山)の2名が当日顔を見せてくれたのである。ここで、この日のために用意した極秘作戦を披露しよう。
くだんの練習日に思いついたことなのだが、難しい歌は一節毎に、私がお手本を歌い、続いて全員がそれを真似る。真似したものが悪かったら、その場でもう一度繰り返す。正しい節になったら、欠の節に進む。これを繰り返して、最後まで歌ったら一節毎とはいえ正確に歌えるのではないだろうか。後は編集によって、出来の良いところをつなぎ合わせていけば良いのである。
同じ節が何度も繰り返されることになるが、音楽的に雰囲気は持続しているので、つないだ場合でも不自然さは回避できるであろうと考えた。名づけてオウム返し作戦。
この秘策を述べたところ若干の反論もあったが、時間的余裕がないこと、まともに練習していないことなど、悪条件を克服するににはこれしかない、ということで了解してもらった。
私の提案は決して妥協案ではない。一節を正確に歌ってゆくことの積み重ねによって、音楽が作られることが証明できるであろうし、60才近くのおっさんたちに一日で9曲を音程やリズムを正確にスラスラ歌うことなんて、どだい無理な要求だろう。
ただし、実践をしたことはないので、どうなるかの不安があったことも事実であるが、たった一日で9曲を録音、と考えただけで、これ以外に解決法はないし、これでも時間的に余裕はないはずである。抵抗を見せる様子に目をつむり、従っていただくことにして録音は始まった。
カラオケが流行を始めだした頃からだろうか、大きな声でいっせいに歌を歌う機会は極端に少なくなった。芸者さんの三味線に合わせて、手拍子まじりではやり歌を歌うスタイルの宴会はもうほとんど姿を見せなくなった。カラオケの世界では他人が歌っている間は静かに聴くか、もしくは自分の曲を探すことに専念するか、とにかく了解なしに一緒に歌うと顰蹙をかうことになる。
そういうわけで、名うてのカラオケ名手といえども、みんなで一緒に歌うことには慣れていないはずである。難しいことはいわない、とりあえず、寮歌らしく聞こえればいい。というレベルを目標とすることにした。
まずは発声練習というと大げさだがちょっと声を出してもらったが、意外と大きな声が出た。しかし、音程はかなり怪しい。マイクを口にくっつけて歌うカラオケとは違うぞ。声をだせば音程が不安定になるのは当たり前のこと。何度手本を示しても違った音程で歌っている人もいた。
女性群は帰りの時問が気になるというので、女声が欠かせない校歌から録音しようということになった。幸い、城南高校創立130周年の記念祭のときに校歌入りのCDを頂いたので、これをカラオケ代わりに小さな音で聴きながら歌った。さすがに一発録音で決まった。続いて、最も難しいと思われていた、北辰斜め。我々が教えられていたのと、正調派のメロディーがかなり違っていたからだ。何度か練習した後、オウム返し作戦開始。原田君のたたく太鼓に合わせて、何度かの歌い直しを繰り返しながら、最後まで完唱。大きな肩の荷を降ろすことが出来た。
こうして、午前中に4曲の録音を終えることが出来た。校歌、学生愛歌、北辰斜め、紅萌ゆる、は女声が混じった城南高校ならではの寮歌となっている。女子禁制の寮歌の世界に女声が進出!男女共同参画社会を標榜する、コワーイおば様たちが聴いたら、さぞかし喜ぶことだろう。
昼食を頂きながら先ほどの録音を確かめてみる。一曲終わるごとに間髪をいれずに、「うまいなあ~」を連発している輩がいた。生田君の自画白賛は今に始まったことではない。
午後の録音は、巻頭言の「流星落ちて…」の収録からはじまった。応援団長役は小柴君である。CD製作の話が出たときから、この大役を果たせるのは、小柴君しかいない、というのが大方の意見であった。当の小柴君、満を持していたらしく、このときばかりは気合が入っていた。マイクの前に立つと、あらん限りの声を絞り出すかのように一声ごとに体を収縮させる。鬼気迫る発声にヤンヤの拍手。.「ウォー!」の合唱も入り、一気にすべての曲の口上を収録できた。
さて残る5曲の録音は次第に疲れが見え始め、中にはかなり妥協をせざるを得ない場面もあった。オウム返し作戦が功を奏したか、午後4時にはすべての録音がOKとなったのである。こんな楽な録音で許されるのだろうか?と案じるのは私だけ、ほとんど自画自賛状態でめでたく録音は終わったのである。正味歌ったのは2時間ほどだろうか、これでCDが出来るのであれば御の字である。
早々に帰宅を始める仲間たち、コンサート他、イベントの後は必ず打ち上げと称する飲み会で、互いの疲労を癒しあうのが慣わしとなっている音楽業界の私には、お酒を飲まずして帰るのは気が引けるのだが、仕方ない。
こうして録音は終わり、後は編集をするばかり、その日のうちに「北辰斜め」を編集して出来具合を確かめてみる。パソコンに向かいディスプレイに映し出された波形を見ながら、ヘッドフォンで音を確認しながら一節ごとにつなぎ合わせてゆく。終わりまで編集してヘッドフォンで聴いてみると、立派な寮歌に仕上がっている。オウム返し作戦は見事的中し、結果は大成功。時折、とんでもない音程の声が入っていたりするが、それもご愛嬌、寮歌の世界では大した問題にもならないだろう。校歌については、城南高校製作のCDから吹奏楽団の伴奏を拝借し、可能な限り元の歌声を抑えて、オーバーダビングの形で我々の音を重ねている。残りの曲も次々編集が進んだものの、手拍子を入れるのを忘れていた。というより録音時には、皆さん楽譜もしくは歌詞カードを手にしていたので、拍手ができなかったわけである。
翌週は、ポケットでまた打ち合わせ会、おおよその編集が終わったものを持参して、皆さんに聞いていただいたところ、出来ばえに歌った本人たちも感激。
ここで、最後の録音となる手拍子を集まった仲聞たちで録音してもらった。それに「ウォー!」の掛け声もまだ少しさびしいので、全員で声を出してもらった。これらの声と、手拍子は後日ミキシングされて、ついにCDは完成したのである。
現実に形となったCDを繰り返し、繰り返し、なんど何度も聴いてみた。不思議なものである。何度聴いても聞き飽きない。青春の思い出がよみがえってくる。同窓生の歌声を聴きながら眠り込んでしまう日が幾晩か続いた。
歌とは音楽とはかくも偉大なものであったろうか?製作にかかわった、すべての人にとって大きな労作となるこのCD、同窓生、および城南健児にきっと喜ばれることだろう。
練習の段階ではひそかに車の中で練習したというものもいれば、堂々と自宅で練習しているところを、家族に見られて顰蹙をかったという輩もいた。
正直なところ、いまどき寮歌が歌われる機会は本当に少ない。私のカミさんや娘にしても、あまり耳にした事がないので、時として吹き出してしまいそうになる。「こんな歌が青春の歌?」そう!我々には間違いなく青春の歌であった大学の寮歌は、向学心に燃えていたあの頃の我々の心を捉えたのだろう。
今どきの高校生に聞かせてみたところ、「右翼の歌う歌ですか?」なるほど、あの真っ黒いトラックに大音量で街宣する右翼の連中が好む軍歌らしき曲とよく似た曲調ではある。軍歌と似て非なるものではあるが、誕生からお役御免になるまでの歴史的時期を同じくするところからそれも仕方あるまい。しかし、寮歌を歌って右翼と思われるのも時代の流れだろうか?
60歳を前にした我々がひとつになり、録音し製作した今回のCDは、単に我々自身の青春の思い出としてだけでなく、貴重な資料ともなり得るものであることを確信している。
このCDを耳にした同窓生や往年の城南健児は、きっと懐かしさに胸が熱くなることだろう。
もう二度とない録音、といった人がいたが、そんなことはない。これを出発点として日本全国の寮歌を歌ってみるのも面白いかも知れないし、これから時間がたっぷり取れる我々にとって、CD第二弾を計画する事だって難しくない。現実的な話として面白いとは思わないかい?